江戸時代初期に松倉重政によって築城されましたが、重政と2代目藩主の勝家の圧政により「島原の乱」が起こり、勝家は領内を騒乱に導いた責により斬首となり、松倉氏は改易されました。
当時は総石垣で天守と櫓49棟を建て並べ、火山灰や溶岩流の地盤での普請工事は困難であったとされ、関わった領民が一揆を引き起こす一因となりました。
明治維新後に廃城となり、天守以下の建造物が破却されましたが、現在は天守が復元されキリシタン・藩政時代の資料を展示する歴史資料館となっているほか、西櫓・巽櫓・丑寅櫓なども復元されています。
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